永禄三年(一五六〇)二月十四日未明、駿府において今川義元の旗本頭をつとめる小島弥右衛門の一家が屋敷で寝ているところを惨殺された。さらに多賀宗十郎、三十歳も屋敷で襲われたが、何者かがもたらした文に救われた。三月初旬今川家の花見が行われている最中、山口三郎兵衛の一党に、花見から戻った義元が人質にされる。義元を人質にした三郎兵衛たちは、宗十郎の客人の湯浅加兵衛だった。織田家に雇われた忍びである加兵衛(本名山路加兵衛)は、大功により義元と対面したおりに目くらましをかけた。五月、尾張併合を目的に義元は駿府を出陣。加兵衛の目くらましは尾張桶狭間で効力を発揮、義元は討ち死。この義元の死に至るすべての筋書きは、信長の寵臣、簗田弥次右兵衛門の策によるものだった。家臣、そして小林村から連れていった百姓全員を失った宗十郎は一人駿府に帰ってきた。