ホーム > シネマ情報 > 男たちの大和 / YAMATO > 映画 『男たちの大和 / YAMATO』 企画発表
例年にもまして、桜が狂ったように咲き誇ったあの春の日、"戦争の大義"が何であるかなど知る由もなく、ただ愛する家族を、友を守りたい一心で「水上特攻」に向かい、若い命を散らしていった男たち。彼らの壮絶な生き様とその深き想いが、残された者たちの永遠に消えない無念が、60年の時を経て、甦り、私たちに語りかけてくる……
太平洋戦争開戦直後の昭和16年(1941)12月16日、世界最大の戦艦が完成した。その名は「大和」。当時の造船技術の粋を注ぎ込み、4年余りの歳月を掛けて、広島県・呉市の海軍工廠で極秘裏に建造が進められてきた”不沈艦”は、世界最大の46cm主砲9門を備え、全長263m、満載重量72800tという他に類を見ない巨艦だった。
翌17年2月から連合艦隊旗艦に就任した「大和」は、6月のミッドウェイ海戦に出撃するも、空母機動部隊の遥か後方に控えるばかりで、交戦の機会はなかった。以後、ガタルカナル島での敗退、連合艦隊司令官・山本五十六のソロモン諸島での戦死など、急速に日本の敗色が濃くなり、昭和19年6月のレイテ沖海戦に出撃した「大和」は初めて46cm砲弾を敵空母群に見舞うも、命中させられないまま敗退、同時に姉妹艦の「武蔵」を失った。
そして「大和」は昭和20年4月、稀代の激戦地区となった沖縄に向けた最後の出撃命令が下される。"一億総玉砕"の旗印の下、最初で最後の"水上特攻"になった、この「大和」の出撃には、3300余名が乗り組んだ。そしてその多くは、召集後間もない10代半ばから20代の若者たちだった。
4月7日午後2時23分、米軍艦載機延べ300機の度重なる攻撃によって、誘爆に継ぐ誘爆を繰り返し、天高く突き抜ける巨大な火柱となった「大和」は3000名以上の魂と共に、東シナ海の海底深くへと没した。生存者はわずか270余名、駆逐艦に救出され、佐世保港に戻ってきた時、出航時と同じように咲き誇る桜の花吹雪に「桜が……桜なんか咲いてやがる」と叫び、甲板を転げまわった者もいたという。
辺見じゅん著『男たちの大和』は、「大和」の生存者、遺族への粘り強い取材を経て完成された。その視線は徹底して下士官たち、そして彼らの残された家族である市井の民に向けられている。それはあたかも「大和」の実像を艦橋から見下ろすのではなく、艦底から見上げたものとして浮き彫りにした、従来の戦記ものとは一線を画した傑作ドキュメントであり、昭和59年第3回新田次郎賞を受賞した。
監督・佐藤純彌は、『人間の証明』『空海』『植村直己物語』『敦煌』など数々の超大作を、力強い人間描写と共に作り上げた、日本映画界きっての巨匠であり、今回の映画化にあたり、"「大和」と「大和」の乗員たちの姿を克明に描き、映像として甦らせることこそ、亡き魂への鎮魂となる"と意気込んでいる。
そして東シナ海の水深300mを越える深海底に没したまま、戦後杳として所在のしれなかった「大和」はどうなったのか。『男たちの大和』の出版を契機に、「大和」の生存者・遺族たちからの熱望に答える形で、「海の墓標委員会」が辺見じゅん委員長、角川春樹事務局長の尽力で結成され、昭和60年7月31日、イギリスから持ち込まれた、当時最新鋭の深海探索艇「パイセスII」によって、"菊華の紋章"、46cm主砲などを発見、戦後40年目にして「大和」の姿が始めて捉えられた。
戦後60年を迎える2005年。「大和」の元乗組員たちとその家族の方々の熱き想い、そして先の大戦の"実体験者"たちの切なる願いの込められた、"魂の入った作品"が製作できる最後のチャンスにあり、映画『男たちの大和 / YAMATO』が、"未来永劫語り継がれる、壮大な叙事詩、鎮魂歌"として、空前絶後のスケールでスクリーンに登場する。
戦艦大和は一九四五年四月七日、米航空機部隊の爆撃によって東シナ海に沈没した。乗組員三千三百余名、戦死者三千余名。戦後も長い歳月、肉親の戦死した場所が大和であったことすら知らない遺族もいた。
私が『男たちの大和』を書くべく取材していたとき、岡山の山里で会った少年兵の老いた母は、こう言って嘆いた。「一片の骨もありやせん。役場でもろうた木箱の中は、半紙一枚だけじゃ。半紙に『お写真』と書かれとった。死んだ場所もわからんで、どうして死んだと思えるじゃろう」
息子の骨が見つかるまではどうあっても死ねんと、繰り返し語った。
取材の際のみならず、本の刊行後もこれに類した嘆きが私の耳に届いた。そうした声に後押しされる形で、「海の墓標委員会」が設立された。
海の墓標委員会の一行が東シナ海を訪れたのは、一九八五年の夏である。目指す海域は鹿児島の西南西三百キロ、約十六時間の彼方だった。東シナ海は荒れる海である。そのため海底探索には危険が伴う。英国の潜水艇パイセスIIによる作業は容易にははかどらなかったが、ついに大和の認識票である艦首の菊華紋章が発見された。
「ジス・イズ・エンペラーズ・シンボル!」
英国の元海軍士官の艦長と海の墓標委員会の事務局長との声が伝声管から聞こえ、母船の操舵室の最新ソナーとビデオの画面に、金色に輝く菊華紋章が映し出された。このとき、初めて大和の沈没地点が確定されたのである。
翌朝、私は艦長と大和の生存者の三笠逸男氏と三人で、潜水艇に乗った。だが、潮流が早く、潜水艇の操縦に支障がきたし、海上の母船との唯一の更新の無線も途絶えた。事後にわかったことだが、その地点こそ艦橋を含む大和の中心部の沈んだ場所だった。大和は弾火薬庫の誘爆によって大きく四つに爆裂したが、偶然の事故により、最も激しい爆発を起こした大和の内懐に入ったのである。
そこは、今少し前まで戦争が行われていたような想像を絶する世界だった。白骨らしきものが見えたので近寄ると、頭蓋骨そっくりの巨大な貝だった。大和は鉄の要塞と呼ばれたが、私が見たのは海の墓場であった。そのお墓に、供花の花束を置いた。潜水艇が大和の艦体に入ったのは、この一回だけだった。
「大和は美しいフネだった。青春を賭けても悔いがなかった」
学徒兵の一人は、そう語っている。
戦後六十年目、東映によって戦艦大和が映画化されるという。たとえ、兵士たちの遺骨が海に溶けさっていたとしても、遺族をはじめ私たちの心の中から、その姿が永遠に消え去ることはないだろう。
丁度、海底の大和の菊花の金箔のように、死んでいった兵士たちの魂は、映像の再現によって日本人の心に鮮明になっていくことを祈っている。
<死ニ方用意>と戦艦大和に書かれゐき島山とほく櫻けぶりて
僅か60年前、日本は戦争の真直中にあった。
21世紀の今、"戦争を知らない子供たち"と歌われた世代が、孫たちの手をひき、安穏の中で進む方向も見えないまま立ちすくんでいる様に見える。
昭和20年4月6日、太平洋戦争の象徴であり、日本の技術の総力を結集して建造された世界最大、最強の「不沈艦船・大和」は、自身を滅ぼすことで大戦を終結に導く為、特攻として沖縄へ出撃した。そして、翌4月7日、15才の少年兵を含む3,000余名の若き防人たちの悲痛な叫びに応えるかのように、「大和」は巨大な火柱を吹き上げ、海底に没した。
40年後、辺見じゅん氏が6年の歳月と熱い取材行脚を重ね、生存者と遺族の重い口から語られた言葉をもとに、「大和」の3年半の戦いと乗組員たちの人間ドラマを、あくまで兵士たちの目線で、壮絶な記録文学として著された。
第3回新田次郎賞を受賞した「男たちの大和」である。歳月を経て語られた真実の重みと、戦争犠牲者への鎮魂でありたいと願う原作者の想いは大きな力となり、同年の「大和」発見へと導いて行った。
そして今、防人たちの墓標として海底に瞑る「大和」と兵士たちの魂を映像でスクリーンに浮上させ、短い人生を生き切った若者たちの、断ち切られた"想い"と命懸けの"愛"を甦らせ語り継ぎたい。日本人としての決断を迫られている今だからこそ、彼等の魂の声を各々の心で聞くことは必要ではないだろうか。
映像化の最後のチャンスであろう。太平洋戦争という巨大な体験が記憶の底に沈んでしまう前に、戦後60年を記念し、関係各位のご協力を仰ぎ、国民の必見の映画として製作したい。
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