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特集: 近藤史恵 の世界

ミステリー、ラブストーリー、スポーツ……バラエティ豊かな作品群で読者を魅了する近藤史恵の最新作は、“自分の感情が信じられない”ヒロイン・南が自身の真実に迫っていくミステリー。彼女は、そして読者は、その空白からどのような物語を読み解くのだろうか?

自分についての記憶を失った状態で目覚めた「わたし」。
彼女は少しずつ、自分が置かれた状況をひもといていく。
そんな夜、彼女の夢にある美しい男性が現れ……。
ひとりの女性の記憶をめぐる、ミステリアスな物語。
主人公・南と彼女を取り巻く人々を、そして彼女にまつわる事件を、近藤史恵はどのように創造したのだろう。

著者インタビュー

この物語の、発想のきっかけは何だったのでしょうか。

近藤史恵(以下、近藤)> ずっと、“自分の感情が信じられない状態”と言いますか、自分の過去の感情と現在の感情の不連続性を書いてみたいと思っていたんです。私にとっては結構親しい感覚なのにフィクションとしてはあまり扱われていない、という思いがあったので、「“今の状況と自分の感情の間に乖離がある”状況を書いてみよう」と。

それで、主人公・南が記憶喪失の状態で目覚めたところから物語が始まるわけですね。彼女を取り巻く人々の配置については、どのように考えていかれたのでしょう。

近藤> 夫とされる人がいることは最初から決まっていましたが、一対一では面白くない。ある種の関係性が外側に広がっていかないと、ということで、夫・慎也と、同居している家族として義母・はると義姉・祐未、割と信じられる存在として南の妹・小雪、という具合。この長さの小説としては、かなり少ない人数ではないでしょうか。

登場人物を絞ったのは、南の心理描写に重きを置くためですか?

近藤> そうです。あまりいろいろな人が出てきても、この話の中では混乱するだけではないかと思ったので。

慎也のほかは女性ばかりですね。

近藤> 私の小説はもともと、特に男性にスポットを当てたものでなければ女性の登場人物の方が多いんです。女性同士の関係を書いていた方が楽しいので。

男女の関係性でも男性同士でもなく、女性同士?

近藤> お互いのことをあまり知らない女性と男性の関係って、そこに恋愛等が介在しないとどこか余所余所しいし、どう書いていいかわからないというのが正直なところで。でも女性同士の関係は、意地悪があったりしてとても面白みがあると思うんです。男性から女性への悪意だと脅威になってしまうのですが、女性同士の場合は意地悪がありつつ親しみもあったりする。今回の場合は、祐未が南を気づかいながらも意地悪する。その距離感は、書いていてとても面白かったんです。

確かに、祐未はとても印象的な存在ですね。ちなみに南の性格やプロフィールなどは、どのように決めていったのでしょうか。

近藤> なるべくフラットに、あまり個性の強くない人物にしようとは思っていました。とても受け身で、『わたしの本の空白は』というタイトルでもわかるように、置かれた状況から“自分を読んでいく”人です。ある意味、読者の立場なんですね。そういう人があまり主張しても、という気持ちがありました。でも、そういう平凡な人のモノローグは書くのがなかなか難しかったですね。

南のモノローグにはご苦労されていたのですね。この物語は基本的に南の一人称で進みますが、時々違う人物の視点で語られる。その構成が興味深いと感じました。

近藤> 南の視点だけでは、少し息苦しいところがありました。これは書きながら思いついたことですが、途中で別の人の視点を入れて外側からこの事件を見てみよう、と。

別の視点を担っている渚も、重要な役回りですね。

近藤> 南はほぼ私の思っている通りに動いてくれたけれど、渚は全然思い通りに動いてくれませんでした。でもそれが、書いていて面白かったですね。

最初はどう動いてほしいと思っていたのでしょうか?

近藤> もっと普通の視点を持った人物として、外側から見てほしかったのですが。全然、普通の人にはなってくれませんでした。

彼女、かなり病んでいますよね……。本作を読んだ男性からも「渚が怖い」という感想があったと聞きました。身近にいるわけではないのに、あたかもいるような感じで、そこに引き込まれた、と。

近藤> そういう病んでいる人が、綺麗な人を見た時の気持ちはどういうものか。もう少し事件とは距離をとっていてもらいたかったけれど、反対にもっと深入りする形になってしまいました。でも実は、渚側の筋はどうなっても本筋に大きな影響はありません。だからこそ自由にできる部分も大きかったし、書いていても面白かった。読者にとっては、意外な驚きになるのではないでしょうか。

それに渚ほど極端なレベルではなくても、ああいう毒というかずるさを持った女性は、案外いるような気もします。

近藤> そういう傾向の人はいますね。それに、渚はとても純粋な部分があるんです。だからこそ、毒をまとっている。それも書いていて楽しかった要因ですね。

南は終始受け身なこともあって、なおさら対照的な祐未と渚の存在は印象に残りますね。そうした女性たちに囲まれているのが、慎也です。彼については、どのような意図を持って描いていたのでしょうか。

近藤> 彼は事前に語ることが非常に難しい人物ですけど、単純な悪人ではない。恋に落ちたものの、ただボタンをかけ違えてしまっただけの普通の人なんです。

そんな彼ですが、南の視点ではある種の怖さ≠煌エじます。

近藤> 普通だけどちょっと怖いというか、最初はいい人そうに見えた人が怖くなっていく感じは出したかったですね。決して酷い悪人というわけではないけれども怖さを感じる、という。

そして、グリム童話の『カエルの王子様』が印象的に用いられています。そこにはどういう意図があるのでしょうか。

近藤> あの話は、子どもの頃から納得がいかなかったんです。どうして、カエルが気持ち悪いからって投げつけて、王子様の姿に戻るのか。カエルが王子様になるのは本当にハッピーエンドなのか。寓話が現実の何かを映し出しているとするなら、そこにはどういう現実が投影されているのだろう、という疑問があって。むしろ王子様がカエルになってしまう方が現実的だし、王子様に見えていた人がカエル―ちょっとおぞましいものに変わってしまった瞬間を書きたいと思ったんです。

そうした作品の執筆で、特にご苦労された部分は?

近藤> かなり複雑な形にしてしまったので、どういう風にカードをめくって真実を明らかにしていくか悩みました。そこで光景が変わっていくわけですから、ひとつを明らかにしたら次にどれを明らかにしていくかで、読後感がまったく変わります。それは、ミステリーを書く時にいつも悩むことですね。

逆に筆がのった部分はどこでしょう。

近藤> 嫌な人って、書くのが楽しいですね(笑)。渚や祐未、慎也と、嫌なところを持ちつつもどこか根がピュアなんですよ。ただ、そのピュアな部分が嫌な現れ方をしてしまう。そういう人を、創作で書いていきたいんです。

作中の人物には、作者自身が投影されているという話があります。あえて言うなら、ご自身に一番近いのは?

近藤> この作品では、誰も似ていません(笑)。とはいっても、わかる部分はあるんですよ。「こういう感情の時はこうふるまうべきだ」というお約束を取り払った時に同じ行動をとるかもしれない、という気持ちはあります。例えば、お母さんが不治の病で入院したと聞いても「だから?」と言うような、人の死に対してとても冷酷な場面があるとします。私も、もしもう助からない病気になった身内がいたら、特にその人が嫌いというわけではなくても「病気になってしまったのなら、もう仕方ないのでは」という気持ちがどこかにあるので、悪意なく「だから、どうしたの?」と言ってしまう気持ちはわからなくもない。もちろん実際にそうなったら、言わないとは思いますけど。そういう自分の中に少しでもある感情を広げていって、書きながらその人を理解していくんです。

特にミステリー作品で感じるのは、作者はどこまで全体像を俯瞰しつつ、細部を組み上げて書いていらっしゃるのだろうか、ということなのですが。

近藤> 南の話の結末は、最初から決めていました。そこに至るまでに他の人物がどう動くかは、わからないままに書いていた部分もあります。

ではその過程と結末は、うまくはまったという実感はありますか?

近藤> どうでしょうか(笑)。私はすごく好きですけど、ちょっと変わった話だと思いますから。読んだ方がなにか新鮮なものを感じていただけるとうれしいのですけど。

最後まで書き上げた時の、率直なご感想は?

近藤> 「変な話になっちゃったな」と(笑)。もっとも、最初から変な話にしようと思って書いていたわけですけど。この作品で一番やりたかったのは、大げさな言い方ですけど“愛を解体する”こと。血まみれになって解体した末に愛が死骸のように横たわっている状態を描き出すことには、成功したと思っています。こういう解体の仕方をした作品は、あまりないだろうと思いますし。そういう意味でも、読んだ方に驚いていただけるのではないでしょうか。前々からステレオタイプな物語とは違うものを書きたい気持ちがあったので、とても満足しています。

この作品におけるステレオタイプというと、夫婦=c…?

近藤> それと“愛”だったり、“女性の執着・愛情”だったり。渚はよくある情念系の女性ではなく、ちょっと醒めていて、でもロマンティック。「“自分にはないもの”を好きな人が好き」という気持ちは、少しわかるような気がします。

『わたしの本の空白は』というタイトルには、どのような思いを込めたのでしょうか。

近藤> もともと、私は知らない本を読むようなつもりで小説を書くことが多くて。“世界”という本の中から小説にできるものを抽出して、読みながら書き、書きながら読む。そういう同時進行のような面があります。今回は『南』という本でしたが、彼女は本当に普通の人。でもフラットだからこそ、面白い人生を歩んでいくかもしれません。巻き込まれ型ですし、モテ度も高いですしね(笑)。

最後に、この作品を書き上げたことで書き手として何を得たと感じていますか?

近藤> これまでは、どちらかというとリアルな小説を書いていたことの方が多かったと思います。でも今回は、少々離れ業を使った形になりました。ずっと書きたかった “自分の知らない自分に出会っていく”話を書くことができて、とても良かったと思っています。

記憶を失くしてまでも、
誰かに恋い焦がれる想いを抱えることの哀しさ。

書評家
吉田伸子

ある飲み会でのことだった。その場で友人Aが語った内容が、私が記憶しているのと違っていたので、そのことを告げた時のことだ。友人Aは、え、なに言ってるの? という感じで、自分の記憶が正しい、と。私は私で、自分の記憶を信じていたので、飲み会の後も、ずっと心の中に?マークが残っていた。それで、そのことについて考えていたのだが、!と閃いた。「私の記憶」と「彼女の記憶」は違うことに。

もちろん、雨が降っていた、とか当日の曜日とか、そういう「事実」が違ったりということはない。けれど、その時の口調とか態度とかは、受け取る側によって補正されることもあるのだ、と。似たようなことは、家族の間でも時々あって、そういう時は改めてこちらの意図を伝えるようにはしているのだけど、記憶というのは面白いなぁ、と思う。そして、大事だなぁ、とも。

だから、本書の冒頭で目覚めた主人公が、自分の記憶がすっぽりと失われていることに気付くシーンは、ぞわりと怖い。名前も、年齢も、職業も思い出せない、彼女は一体誰なのか。彼女がいるところはどこなのか。そして、何故、彼女はそこにいるのか。

この冒頭がスタートで、物語は少しずつ彼女=三笠南の全貌を明らかにしていくのだが、明らかになっていくことで、怖さが薄れていくどころか、ますます不穏さは増してくる。そこには、南の記憶が完璧に戻らず、欠片、欠片のはぎ合わせの状態のままである、ということが大きく関与している。このあたりの筆さばき、物語巧者の作者ならではだと思う。

意識が戻った南に会いに来たのは、夫のシンヤで、南は自宅の階段から落ちて気絶して、入院したのだということ。二人には子どもはいないこと。家は二世帯住宅になっていて、一階にはシンヤの母と姉が住み、二階に南とシンヤ、キッチンと風呂は一緒であること、等々、南は教えられるものの、全くイメージが浮かばない。何しろ、夫と名乗られたものの、名前さえ覚えていなかったのだ。記憶を失くした南にとって、シンヤは見ず知らずの他人と同じである。けれど、今の今は、目の前の「事実」を受け入れるしか、南にはできない。今は働いていないこと、小雪という名の仲の良い妹がいること、歳は二十六歳であること、結婚したのは八ヶ月前の四月だということ……。

検査の結果、脳に問題はなさそうだ、ということで退院することになった南だが、不安は抑えきれない。そんな南に会いに来た女性は、自分のことも忘れられていることに不快さを隠そうとはせず、言い放った。ちょうどよかったじゃない、と。「なにもかも忘れて、実家に帰っちゃえば?」彼女の物言いから、南はその女性がシンヤの姉のユミだと推測する。そして、全てを忘れてしまったように振る舞うのではなく、覚えていることと覚えていないことがあるように振る舞った方がいい、と考える。「わたしがときどき思い出したり、覚えていることがあるようなふりをしていれば、簡単に?はつけないだろう」

物語は、家に帰宅した南が、少しずつ記憶を蘇らせていく過程と、時折夢に見る男性―シンヤではないその男性に、夢の中の南は強く、強く恋い焦がれていた―の謎、を解き明かしていく。

ここから先は、何の情報も持たずに読んだ方が、より一層物語を楽しめると思うので触れないが、記憶を失くすことの根源的な怖さと同時に、記憶を失くしてまでも、誰かに恋い焦がれる想いを抱えることの哀しさが、きりきりと胸に迫ってくる。

それにしても、随所に光るのは、近藤さんの確かな描写力だ。南に戻ってくるのは、良い記憶ばかりではない。思い出さなければよかった、という記憶も、ある。そのあたりの南の複雑な想い、この先自分はどうなってしまうのだろう、とか、このままでいいのか、という不安までもがリアルに伝わって来て、読み手もまた、南と同じように気持ちが揺れてしまう。でも、だからこそ、南の選んだ答えが、切なく響く。辛い経験をきっかけにして、そこから先へと進んでいく彼女のこの先に、光があるように、と思わず願ってしまう。そこが本当に巧い。

作者の近藤さんは、一九九三年にデビューされた方なので、今年で作家生活二十五年。二〇〇八年に大藪春彦賞を受賞した『サクリファイス』では、自転車競技の世界を描いて、さらにファン層を広げた。歌舞伎を題材にした作品や、「清掃人探偵・キリコ」シリーズ、「ビストロ・パ・マル」シリーズ、等々、作風は多岐にわたるのだが、何と言っても、近藤さんの魅力は、登場人物の細やかな心理描写にある。本書は、そんな近藤さんの魅力をたっぷりと味わえる一冊でもある。冒頭からラストまで貫かれる緊迫感も、ご堪能あれ!

近藤史恵(こんどう・ふみえ)
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒。1993年『凍える島』で鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で大藪春彦賞を受賞。そのほか「猿若町捕物帳」シリーズ、「ビストロ・パ・マル」シリーズ、「清掃人探偵・キリコ」シリーズや、『シャルロットの憂鬱』『ときどき旅に出るカフェ』『インフルエンス』『震える教室』など著書多数。

小特集: 角田光代『ボクシング日和』刊行記念

ボクシングをはじめて自覚的に見たのは九〇年代の後半だ。そのころは辰吉一郎選手がたいへんな人気で、私の友人たちもみんな見ていた。友人と焼き鳥屋で飲んでいたら、テレビで辰吉の試合がはじまり、急いで帰って家でじっくり見たことを覚えている。

けれどそのときの対戦相手はだれで、どんな試合だったか覚えていない。その後、私は辰吉と対戦したタイのウィラポン・ナコンルアンプロモーション選手の大ファンになるのだが、彼と西岡利晃選手の試合を見にいくこともなく、やがてその名前がさほど聞こえなくなると忘れてしまった。ボクシングの試合を見ることもなくなった。

この時点で、だから私にとってのボクシングはプロレスや野球と変わらなかった。大仁田厚という人がプロレスラーなのは知っていたし、誘われれば電流爆破デスマッチも見にいった。ゴジラというのは松井秀喜のことだと認識していて、やっぱり誘われれば彼の出るジャイアンツの試合も見にいった。けれどもプロレスや野球のルールも知らず、それらに誘ってくれる友だちがいなくなれば見ることもなく、見ることもなくなれば忘れてしまう。ボクシングもそうしたものだった。

2001年、たまたま住まいのそばにあった輪島功一スポーツジムに入会した。元世界チャンピオンの輪島功一さんが会長をつとめるボクシングジムである。その当時失恋をして、ともかくも心を強くしたいと切望した私は、まず体を鍛えなければならないと思い詰め、家からいちばん近いジムの門を、すがるように叩いたのである。

そこに通うようになってから興味を持ち、練習生の試合を見にいくようになった。何度か生で試合を見ているうちに、こんなに興奮するスポーツは私にとってほかにないと思った。プロレスとも野球とも、私のなかではまったく異なるものだった。何が異なるのかというと、私にもわかる、ということだ。

ボクシングは至極シンプルだ。ほとんど同じ体重のもの同士が、パンチだけで戦って勝敗を競う。いってみればそれだけだ。反則や、試合中にひどい負傷を負った場合の取り決めなど、こまかいことはいろいろあるけれど、そんなことは知らずともかまわない。ただ見ていれば、たとえはじめて見る試合であっても、何が起きているのか理解できる。KO試合ならば、その強さ弱さをはっきりと目で見ることができる。

はじめて後楽園ホールで試合を生観戦したとき、私は心の底から驚いて、最後まで驚きっぱなしだった。まず音。パンチの音が、震え上がるほどよく聞こえる。そして飛び散る汗がはっきり見える。人が、生身の体ひとつで戦っている、それが実感できる。それに加えて、観客席からの野次、歓声、盛り上がりに圧倒された。

ひとつの試合でこの目が捉えるものは、戦う選手の強さ弱さだけではないということも知った。駆け引きや負けん気、一瞬の恐怖や戦意の喪失、焦り、いらだち、「今がたのしい」という気分まで、観客の目に見える。特定のだれかを応援していなくても、ひとつひとつの試合に見どころがあり、ドラマがある。

かくして私はボクシングのファンになった。ただ興奮して見ていた試合のことを、書き留めておくようになったのは、2014年からだ。晴れでも、雨でも、台風でも、この対戦を見たい、この選手を見たいと思ったときが、私にとってのボクシング日和なのである。

『ボクシング日和』「まえがき」より

●新刊紹介

『ボクシング日和』
後楽園ホールで、大阪で、マカオで……カクタさんは戦う男たちに叫び、涙し、祈る。ベストセラー作家が、愛してやまない「ボクシング」を通して人生のきらめく瞬間を描く、待望のエッセイ!
本体1300円+税
角田光代(かくた・みつよ)
1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2004年『対岸の彼女』で直木賞、12年『紙の月』で柴田錬三郎賞を受賞。ほか『私のなかの彼女』『森に眠る魚』『空の拳』など、著書・受賞多数。

小特集: 苫米地英人『百年後の日本人』刊行記念

苫米地英人が示す、
未来の日本人への提言

6月刊行予定!

前作『苫米地英人、宇宙を語る』の刊行から約9年。
気鋭の脳機能学者が再び、刺激的な一冊を上梓した。
『百年後の日本人』というタイトルは壮大だが、ここには、われわれ日本人がこれまで捨ててきてしまったもの、今後失うであろうと思われるもの、そして、未来まで残さないといけないもの、すべてが詰まっている。
一瞬、そのスケールが大きすぎて、途方に暮れるときもあるが、そこは世界を股にかけて多方面で活躍する著者ならではのダイナミックさの裏返しでもある。
「苫米地英人ワールド」ともいうべき、地球規模の視点に驚かされるだろう。

『百年後の日本人』というタイトル通り、世界情勢やテクノロジーの発達した100年後にわれわれ日本人はどうあるべきかを提言している本作だが、著者が現在の世界情勢と経済情勢から予見する未来像には間違いなくショックを受ける。

「グローバルスタンダード」という言葉が定着して久しいが、普段の生活に追われている市井の人々にとっては、世界はここまで変貌しているのかという驚きがあるだろう。著者は、まずこの現状を認識することがスタートだと説く。中でも、アメリカと中国の二大大国による経済的な支配の進行は想像以上といっていい。ややもすると、われわれ日本人が被支配階級に追いやられてしまうような危惧さえ覚えるが、決して大言壮語ではなく、世界を飛び回る著者だからこその説得力があり、重大な問題提起となっている。

テクノロジーとの共生

第2章で触れるテクノロジーの進化も同様だ。

前作のテーマでもあった宇宙開発に加え、海底開発や地下都市や時間旅行、クローン人間など、SF小説さながらのテクノロジーの進化が語られ、想像を絶するような未来像が提示される。さらには、科学の進化がライフスタイルを変貌させて、人間のアイデンティティがどう変わるかまで踏み込んでいる。

当然、科学の進化によるリスクも存在するのだが、だからこそ人間には知見が必要だと強く語る。

これは、脳機能学者の著者ならではの視点であり、感傷的にではなく、効率を重視する意味で、人間の潜在能力を引き出さんとする未来像とそこに込められた意図を提示してくれる。人間とテクノロジーの共生についても考えさせられる重要な章ともいえるだろう。

100年後はディストピアではない

そして、第3章で語られるのは日本と日本人があるべき姿そのものである。

ここまではややもするとディストピアのような未来を提示し、読者に一抹の不安を覚えさせるが、ここで著者は、われわれが思わず「なるほど!」と膝を叩きたくなるような、日本人特有のアビリティを提示する。アメリカと中国以外の国がどうやってアイデンティティを保ってきたかを明示し、それが日本に置き換わった時に何にあたるのかが示されるのだ。この提示は、一見トラディショナルなものに見えるが、これまで日本が築いてきたもの、先人たちが作り上げてきたものへの大きなリスペクトがあり、われわれ日本人が歩んできた道も決して間違っていなかったのだなと改めて自信を深められるものとなっていて、決して古びていない。これまでテクノロジーと経済に世界が支配されていると警鐘を鳴らし続けてきた著者だが、「そんな時代だからこそ」この提示が光るものになっており、極めて説得力がある。これも、世界を飛び回り、様々な社会を見てきた著者ならではの提言といえるだろう。

明らかにセンセーショナルな表現もあり、毒気の強い一冊ではあるが、ここに提示されている事象はすべて世界の真実であり、合理性と経済性に完全に支配された世界の姿である。しかし、著者はこうした世界を否定も肯定もせず、まずは受け入れ、その中でどう生きていくかを示そうとしている。そのうえで、「100年後の日本人」というわれわれが本来想像せねばならぬ姿を、合理性と経済性を否定せず現代に即した形で、しかも時代の流れに負けない強度を持った形で提示してくれる。

昨今、「日本のここがすごい」という論旨の書籍が横行しているが、この一冊はそんな凡百のものとは明らかに一線を画す。高貴かつプライドを持った正しい意味での「日本人論」の序章ともいうべき著者の新作として大いに期待してほしい。

苫米地英人 (とまべち・ひでと)
1959年、東京都生まれ。認知科学者、計算機科学者、カーネギーメロン大学博士(Ph.D)、カーネギーメロン大学CyLab兼任フェロー。マサチューセッツ大学コミュニケーション学部を経て上智大学外国語学部卒業後、三菱地所にて2年間勤務し、イェール大学大学院計算機科学科並びに人工知能研究所にフルブライト留学。その後、コンピュータ科学の世界最高峰として知られるカーネギーメロン大学大学院に転入。哲学科計算言語学研究所並びに計算機科学部に所属。計算言語学で博士を取得。徳島大学助教授、ジャストシステム基礎研究所所長、通商産業省情報処理振興審議会専門委員などを歴任。著書に『いい習慣が脳を変える 健康・仕事・お金・IQ すべて手に入る!』(KADOKAWA)、『真説・国防論』(TAC出版)、『●米地式 聴くだけで脳からストレスが消えるCDブック』(イーストプレス)など多数。TOKYO MXで放送中の「バラいろダンディ」(21時〜)で隔週月曜コメンテーターを務める。
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