特集:江國香織の世界
『ブーズたち鳥たちわたしたち』刊行記念
江國香織インタビュー
聞き手・内藤麻里子
江國香織さんの新刊『ブーズたち鳥たちわたしたち』は、力強く私たちを祝福してくれているかのような物語である。「世界が変わり、わたしたちも生き直す」過去最高にアグレッシブな作品になった。新境地についてお話をうかがった。
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――かつて、こんな江國作品は読んだことがありません。昏迷の現代に贈る「産めよ、増えよ、地に満ちよ」というアグレッシブなメッセージにあふれ、まるで祝福のよう。なぜこの物語を書くに至ったのでしょうか。
江國香織(以下、江國)> そもそもカッパと天狗とお稲荷さんは、昔はもっと身近でした。百年ほど前までは各地で目撃談があったんですが、最近はとんと聞かない。彼らはどこに行ったのかなと思っていて、それを書いてみたかったのが最初でした。彼らに関する資料には、力強いものを感じます。日本人はそういう土地に生まれ、もっと強くおおらかなはずではないかと思ったんです。私の印象では世の中がせせこましくなっています。そこで現代を舞台に彼らに出てきてもらおうと思ったら、やたらアグレッシブに活躍してくれて、こういう小説になってしまった(笑)。でも民話とか児童文学っぽくしたくなくて、あくまで現代小説の中にいる彼らを書きたかった。
――三章構成で、最初は「ブーズたち」です。日本の大学講師がアメリカに行ったついでに、ロードアイランド州プロヴィデンスに澄んだスープのクラムチャウダーを食べに行くんですけど、なんとそこに「booze(ブーズ)」と呼ばれるカッパたちが日本から移住していたんです。何が始まるんだと思いました(笑)。
江國> 前回、角川春樹事務所で刊行された『シェニール織とか黄肉のメロンとか』は読んで楽しいを目指したんです。今回は読んでびっくりしてもらいたかったので、うれしい。
――とにかく澄んだクラムチャウダーがおいしそうで……。
江國> おいしいですよ。ちょうどこれを書く少し前に、取材とは関係なく実際に食べに行きました。小説にも書いたんですけど、十年くらい前に飛行機の座席ポケットにささっていた雑誌でその存在を知り、その後ドン・ウィンズロウの小説に何度も出てきて、「絶対に食べる」と思っていて。そうしたら、プロヴィデンスは川だらけで海もあるし、カッパの移住先にぴったりだったんです。アメリカではカッパなんて知られていないでしょうから、騒がれることもなく、野生動物として静かに暮らしている。カッパはしゃべったり、手伝ったりするらしいから、そんなふうに描きました。
――よくブーズという言葉を当てはめましたね。「酒盛り」の意味があるそうですが。
江國> 苦肉の策です。タイトルは「カッパたち」でもいいんですが、びっくりしてほしかったから、具体的な名称は使いたくなかった。アメリカ人がどう呼ぶか考えた時に、どの資料にもカッパは酒飲みだと書いてあったので、これだ、と思って。
――「ブーズたち」ではまだ先が読めませんが、次の「鳥たち」の章は一転してお書きになりたい要素が一気に出てきます。会社を辞めて主夫になった男や、自分の恋愛対象は女性だと気づいた妻らが登場して、たくさんの鳥たちを介して音や声を聴くようになります。ここで現代を「言葉ではない何かを信じて生きている」「自分の気持ちなど、とうに手放してしまった」と、表現していますね。
江國> 今に限ったことではないのかもしれないけれど、自分の感情と言葉がうまくつながっていない人が増えた気がします。離婚が問題となる夫婦が登場しますが、ポジティブな離婚だってあるはずなのに離婚はネガティブなことだからしたくないと、思考自体が記号化しているような気がします。この小説に限らず、いつも自分の気持ちに忠実に考えればいいのにと思っていて、初期の『きらきらひかる』(一九九一年刊)を書いたモチベーションもそれだったんです。
――自分のことをきちんと考えないのは、戦争が各地で起き、SNSで根拠のない言説が広がる現代の問題の根としてありそうです。
江國> 原因ではないと思いますが、今の風潮には関係があるかもしれませんね。同調圧力がSNSで強化され、多勢に無勢で叩かれる。そんなものはないのに正解、不正解があるような世の中になっています。それは何事も個人的なレベルで考えないことに通じているのではないかと思うんです。天狗とお稲荷さんたちは、「もっとやっちゃえ」「勝手でいいんだ」と、そこに活を入れています。
――天狗とお稲荷さんは神様とばかり思えない存在として描かれてますね。
江國> 神様の側なんですけど、それらは庶民のものだった気がします。私の実家にもお稲荷さんの神棚があったんです。みんなのそばにいる、聖なるものというより、俗っぽさもあるイメージがあったので。
――彼らのいる世界には死者たちがいて、そのエネルギーが熱くほとばしっている。だから天狗もお稲荷さんも活動するわけです。
江國> 思うに死者は増える一方ですし、死後の場所には病気もないだろうから結構お祭り騒ぎなんじゃないのかな。自分の子孫や国の繁栄を望んでいるだろうし、エールを送ってくれているのではと想像しています。憂えているかもしれないですけど、面白がる要素もある。私たちも二百年後、三百年後を見られるものなら、すごく興味があるじゃないですか。何かわからない社会だけれども、頑張れと思うんじゃないかな。
――最後の「わたしたち」の章はお稲荷さんが出てきて、もう祝祭です。終幕に向け、どんどん盛り上がっていきます。
江國> 最後の一編は確かに変な高揚感がありますね。書きながらなるほどこういうことだったのかと思いました。「天狗って無責任なの」って、主夫になった男のお姉さんが言いますけど、神様たちって若干無責任なんです。だから主夫になった男は会社を辞めてしまう上に、家も出ちゃうし、コンビニでバイトを始める。それでいいのか。でもいいんじゃないって思ったりもするんです。いろいろなことは、もっとおおらかでいいんじゃないかという、私の個人的な気持ちがそこに炸裂しているかもしれない(笑)。
――「産めよ、増えよ、地に満ちよ」だけでなく、「解放しろ」とも言っています。ここまで声高に言う物語は初めてですね。
江國> 積極的に打って出ました。でも、この三つのものたちをいざ書こうとした時に、「どうやってよ」と途方にくれました。その後、カッパが移住したと発見したところから開けたんです。次に天狗は姿がないということにたどり着いた時にまた視界が開けた。ファンタジーにしたくなかったので、赤い顔で鼻が長く、高笑いして下駄をはいている生き物を出すのは難しい。小説にも書いたように、それは室町時代に絵師が考えた姿であって、平安時代にはトンビだと思われていたという文献があったんです。天狗に姿はないけど存在はしていて、鳥たちが天狗を具現化したものであるというところにたどり着いてからは、そこら中天狗がいるじゃんって。
――作中で「世界」ではなく、「世間」という言葉を使っていますね。
江國> ここは世間なんです。三つのものが世間の信仰だと思うので。世間という概念は面白いと思います。「世間様に顔向けできない」とか、世間って「お天道様に恥ずかしい」「ご先祖様に申し訳ない」と言う時の「お天道様」「ご先祖様」と同じ使い方をされます。私にとっては私以外が世間。でも私外の人にとっては私も世間の一部で、世間はとても流動的で実体がない。「世界」は地球とか、文学の世界といった業界などを指す、ある程度具体的な概念です。だからこそ特に日本では、自分たちを律するために世間の方が有益だったんだろうと思います。でも世間を過剰に恐れるのはつまらない。今、みんな過剰に恐れていますよね。
昔ながらの世間には、天狗もカッパもいた。資料からわかるのは、飢饉や、赤ちゃんが死んでしまう理不尽を、天狗にさらわれたとか、カッパとの約束を守らなかったからとか言って、折り合いをつけるためにも必要だったんだろうということ。神様として立派なばかりではなく悪さもするような、人間と神様の間のグレーゾーンが必要だったのだと思います。
――昔はお天道様とか、ご先祖様、世間様とか、自分の軸みたいなものがありましたね。
江國> 誰も見ていないところでも絶対お天道様やご先祖様は見ている。天狗たちもそういう存在だった。今そう思う人は少ないでしょうけど。彼ら、ちょっと留守にしていたんだと思います。私、書いているとその気になりやすいので、本当に移住していたのかもしれないなと(笑)。
