最新号

今月の特集

群ようこ の世界

「パンとスープとネコ日和」新刊発売記念特集

ドラマでも話題となった30万部突破の大ロングセラー!「パンとスープとネコ日和」シリーズの第5弾が発売されます。アキコは、周りの仲間に助けられながら、今日ものんびり(時々休み)お店を営業中。けれども、お馴染みメンバーも少しだけ変わっていく中、美味しくて滋味深いサンドイッチとスープもまた変わらずにはいられない。大人気シリーズの創作秘話を、群ようこさんにうかがいます。


二〇一二年四月刊の一作目から、一〜二年に一作のペースで書き継いでこられました。五作目刊行の感想を教えてください。

群ようこ(以下、群)> 完結する時はまとめらしきエピソードを入れますので、原稿をお渡しするたびに「いつまでですか?」と聞くと、「んー、まだ続けたいです」と言われて。それでまとめることもなく書いていき、五冊目を出していただくことになりました。最初は一作だけと思っていたんです。「では二作目を」と言われて、「じゃあ、猫のたろちゃんは死ななくてもよかったのに」と思ったんですけれどね(笑)。二〇一三年にテレビドラマ化されて、私の中でも変化しながら書くことになったシリーズです。頭の中のイメージと少し違うキャスティングを目にしてキャラクターがより鮮明になり、その感覚であらためて書いてきたシリーズですね。

「ゆったりした感じが好き」「気持ちが落ち着く」というファンの方が多いです。どのように書き継いでこられましたか。

群> 私の方は毎回書くのに必死で、ゆったりとは正反対です(笑)。私の書くものは淡々と日常が過ぎていく中で小さな事件が起こるので、次はどんな事件を起こせばいいのかなと、平凡な毎日にちょっと波風が立つような出来事を何かしら入れていこうと思っています。五作目となると時間がある程度経過して、みんな年をとるんですよね。ソフトボール部出身のしまちゃんもいつまでも元気なままではなく、なんとなく年をとったという時間の経過を今回は意識して出そうと思いました。アキコも寄る年波を感じ、いつも元気なしまちゃんも何かあれば具合が悪くなるというね。なんだか少しずつ変わっていくんです。

今回は、ずっと頼んでいたパン工房の変更や、異母兄と思われる住職が亡くなってアキコがいよいよひとりぼっちになるという出来事があります。このシリーズのテーマは。

群> 今の若い人を見ていると、私の若い頃に比べてすごく真面目だなと思います。ミスしたくない、できないと思われたくないと、やりたくないことまで引き受けて、心療内科に通うようになるのを見ると悲しくなってしまって。そんなに人の目を気にして過剰に頑張らなくてもいい、自分のやりたいようにやってもいいんじゃないかなと思います。若い頃は体力があって好きなことができるのに、周りを気にして健康を害したり、気持ちがふさいでしまうのはもったいない。アキコは非嫡出子で差別的なことを言われて育った主人公ですが、いちいち気にしていたら生きていけないし、もうちょっとゆるくていいんじゃないかなという思いで書いています。気ままに飲食店を営んで、疲れたら休む。そこに向かいの喫茶店のママがやって来て毒を注入しないと、ただのほほんと過ぎていくだけなんですけど(笑)。

今回のパン工房の変更も、先方が過労で店を閉めることになるからですね。地方のパン工房と新たに契約することになります。

群> 疲れがだんだん蓄積しているのに気づかず、頑張りすぎてしまった。年をとるともうひと頑張りが命取りで無理できないんですけど、若い人のなかにはやれるからと突っ走るタイプの人もいるので、ほどほどに休みをとるようにということです。新しいパン工房は、若い人と高齢者が助け合って営業しているケースをインターネットで見た記憶がありました。地方で開業した若い夫婦がいて、パン工房だけじゃなく農業も始めたら地元の農家が畑を貸してくれたり、いろいろ教えてくれたり、ああこういうのはいいなと思ってイメージしていきました。

それぞれの個性がゆるく繋がることのよさも、小説から伝わってきます。

群> 世の中の流れに乗って方向を変える人もいます。世渡りなんでしょうけど、私はそうではなくて、世の中のことを多少加味しつつも、描きたい人物は基本的に変わらないですね。前向きで、まっとうで、人にも動物にも優しいというのは、人の基本じゃないかと思いますので。出世欲があるのは悪いことではなく、仕事を評価されたいのは当然と思うけれど、人を踏みつけてほしくないんですよね。大人しい人は反論できないですから。

しまちゃんのように黙々と何人分も働く人は、アキコみたいな人とでないと便利に使われてしまう気がします。あと五作目のトピックスといえば、しまちゃんの新婚生活ですね。彼氏のシオちゃんはどのようなイメージで登場させたのでしょうか。彼はなぜしまちゃんを泣くほど好きなのか。

群> 二人の結婚生活は、アキコが今いちばん心を痛めている事案なんです(笑)。非常によくやってくれるしまちゃんとだんだん親しくなるうちに気になって、おせっかいにならないようにと思いつつも、ちょっと様子を聞いてみなくては気が済まない。シオちゃんはしまちゃんとは対照的で、華奢で優しい、善良の塊みたいな人です。シオちゃんの方は一般的な結婚生活をしたいけれど、大好きなしまちゃんが籍を入れない事実婚がいい、別々に住みたいと言うので、仕方なく従っている感じです。好きなタイプはいろいろで、誰もが女性らしいタイプを好むわけではない。出会った時に「見つけた!」と思って、もう彼女がずっと好きでたまらないんですよね。

いろんな形があって、幸せならいいのではないかと思います。

群> そうですね。ただシオちゃんが幸せかというと微妙な問題だなと、私は書きながら思っているんですけれども(笑)。

みんな少しずつ年を重ねて、どう生きていくかは切実な問題だと思います。

群> 今までは横割りだったと思うんですけれど、これからは縦割りにしていかないと難しいかもしれないですね。世代の横の繋がりが減る分、縦にいろんな年齢の人がいて、年配の人の経験を繋いでいくようにしないと回っていかなくなる気がします。アニメでも車でも、ある分野のことに詳しい、子どもの頃から興味を持って専門家のようになっている人がいます。そういう人がちゃんといたら、年配の人っていろいろ知ってるんだなと思われて、若い人から疎外されることもなくなってくると思います。先日、取材に来られた人に『進撃の巨人』のことを話したら、「知ってるんですか?」と驚かれて、年配の人は知らないというイメージがあるのかなと。私は最近「人間椅子」というロックバンドに再びはまっているんですけれど(笑)、年を重ねてより一層演奏が上手くなっているから、再ブレークしたんですね。仏教的なことと文学と妖しさとロックが融合して、面白くて。時と共に、自分の中でいろいろ熟成させていく人はいいなと思います。

消費税率が上がるタイムリーなエピソードもあります。十年近く書き続ける中でご自分の周りの変化を感じながら、小説に投影していくのでしょうか。

群> アキコと私は、生まれ育った環境や基本的な性格は違っても、自分で働いて生きていこう、というのは同じです。その小説を書き始めた時の感覚が入ってくるので、暑いから暑い話にしようと、特に意識せずに今回は夏の話です(笑)。五作目になると登場人物が勝手に動いてくれて、楽ですね。主要人物が決まっていて、時折新しい人が出入りする感じです。角川春樹事務所で交互に刊行している「れんげ荘」シリーズは、同じくゆるい雰囲気で、映像になっていない分、私のイメージでずっと進めています。無職の主人公キョウコについて「心配です。病気になった時はどうするんですか」などと、読者の方が心配してくださってありがたいです。アキコの店の方は、長蛇の列と閑古鳥の間ぐらいで一定している感じでしょうか。税金はあるけれど、家賃を払わないで済むからやっていける。反発して母の食堂とはまったく違うお店を開いたアキコでしたが、店舗を残してくれたお母さんにだんだんと感謝の気持ちを抱くようになっているんです。

●新刊紹介

『今日もお疲れさま パンとスープとネコ日和』
アキコは、信頼できる相棒のしまちゃんと、丁寧に作る美味しいサンドイッチとスープのお店を営んでいる。しまちゃんは、事実婚式を終えたにもかかわらず、パートナーのシオちゃんにそっ気ない態度で、アキコはやきもきしている。そんな折、サンドイッチ用のパンを仕入れていたパン屋が店を閉めることになり、しまちゃんは、シオちゃんにも手伝ってもらって、新しいパン屋をさがすことに……。
本体1400円+税
群ようこ(むれ・ようこ)
1954年東京都生まれ。本の雑誌社入社後、エッセイを書きはじめ、1984年『午前零時の玄米パン』でデビュー。著書に『無印良女』『ミサコ、三十八歳』「パンとスープとネコ日和」「れんげ荘」各シリーズなど多数。

特集:柴田よしき の世界

時代小説『お勝手のあん』刊行記念特集

ミステリーや青春、恋愛、あるいはスポーツとさまざまなジャンルで話題作を発表し続ける柴田よしき。その新刊は『お勝手のあん』。著者初の時代小説である。幕末を舞台に一人の少女の成長を描くこの作品に込めた思いと創作の舞台裏をうかがった。


驚きました、柴田さんが時代小説を書かれるとは。

柴田よしき(以下、柴田)> 数年前からさまざまな出版社からお話はいただいていましたが、ずっとお断りしてきたんですね。時代小説って日本刀での活劇が出てくるじゃないですか。でも剣のことなんてまったくわからないし、私には書けないなと。今回も最初はガレット屋さんを舞台にした現代小説になる予定だったんです。でも、美味しいと評判のガレット屋さんで、その打ち合わせが始まろうとしていた時、突然、角川春樹社長が「時代小説を」とおっしゃって。もう私、目が真ん丸になってしまって(笑)。

今度ばかりは断れなくなってしまった(笑)?

柴田> ええ。でも、すぐにはお引き受けできなくて、少し時間をくださいと。それでお侍さんや剣に囚われず、自分流の時代小説ができないものかと考えた末に生まれたのが『お勝手のあん』です。

主人公は品川宿の旅籠「紅屋」で下働きをするおやす。”やす”は漢字で”安”と書けることから”あん”と呼ばれるわけですが、設定は十五歳。柴田さんの作品で少女が主人公というのは珍しいですよね。

柴田> 私、『赤毛のアン』がとても好きなんです。いつか、この作品をモチーフ小説にして書いてみたいと思っていたので、今回がそのチャンスだと。『赤毛のアン』に貫かれているのは、日常を大切にする、その尊さみたいなものだと感じています。つまりそれは、どう生きるかということ。『お勝手のあん』も、一人の少女が、周りの人たちと触れ合いながら日々をどう生き抜き、成長していくのか。その姿を描いていきたいと思っています。

生き抜く術となるのが料理ですね。その覚悟が「私は節になろう」という言葉に表されています。あんの非凡さを感じるとともに、性格まで伝わってくるような言葉です。

柴田> いい節でなければ、いい出汁は出ません。そのことをおやすは知っているわけです。節ってすごく手間暇が掛かるものなんですよね。魚を茹でて、干してから黴をつけて熟成させて。それを人に置き換えれば、つまり、精進ということなんでしょうね。だから、いい節になるために、まずは自分自身を高めていかなくてはいけない。そう思い、おやすの目標になった。自分を高めることで人も幸せにできる。そんな女性の姿を重ねています。

舞台を幕末に設定されています。

柴田> 大きなうねりのある時代ですよね。作中では安政の大地震に触れていますが、その後は井伊直弼による安政の大獄があり、暗い時代に入っていきます。そして薩長の対立も激化し、新撰組も登場するなど不穏な空気はますます強まっていく。そんな中でも、おやすの日常は続いていきます。彼女にとって大切なのは毎日料理をして客をもてなすことであり、またその腕を磨いていくこと。変わらぬ毎日を続けること、生活していくということが、生きるということだと思います。もしかしたらこの作品は、私なりの『この世界の片隅に』なのかなと書きながら感じることもありました。

時代背景を明確にすることで、日常という存在がより際立つように感じます。

柴田> 冒険でもあったんですよね、時代の匂いがするものは敬遠されがちだとも言われていますから。でも、江戸時代って二百六十五年間もあるわけで、初期と後期を比べれば生活様式も食べ物もぜんぜん違います。せっかく時代小説を書くのであれば、私はどこかに絞りたかった。おやすの日常の向こう側に、幕末のうねりが感じられるような作品にしたいと思っています。

そうした世の中の情勢をあんに教えてくれる役割として登場しているのが、”なべ先生”こと河鍋暁斎です。実在した人物ですが、あまり馴染みがなかったので新鮮でした。

柴田> 河鍋暁斎は天才絵師として名を残していますが、知る人ぞ知るという存在かもしれませんね。歴史上有名な人ばかり出しても、歴史ファンでない方にはピンとこないだろうし、逆に歴史好きな方にはありきたりに思えますよね。歴史を意識しなくても楽しめる作品にしつつ、どこかで歴史も感じてもらいたい。ですからNHKの大河ドラマにはあまり登場しないような人物を出していこうと考えています。と言いながら、この先には篤姫も登場するんですけどね(笑)。ですが、作品に登場する以上は一つのキャラクターですし、大事なのはどう使うか。歴史に詳しくない方でも楽しんでもらえるように、また、歴史好きであれば物語世界に親近感を抱いてもらえる人物になればいいなと思います。

作品には、あんの才能をいち早く見抜いた料理人の政一さんはじめ、あんを導いてくれるような大人たちが揃っていて、彼らも魅力でした。

柴田> 周囲の大人たちに恵まれたというのが、彼女の幸運ですよね。彼女が働く紅屋にはとても親切な人たちが揃っています。そして皆、いろんな過去を持っている。政一さんが料理の知識が豊富なのもちゃんとワケがあるんですけど、そこは今後のお楽しみということで(笑)。

うわっ、気になります。現在「ランティエ」では『お勝手のあん』の続編となる『あんの青春』が連載中ですし、シリーズ化も決まっているそうですね。

柴田> 最終的には三十歳くらいまで書きたいなと思っています。その頃にはおやすも料理人になっているでしょう。それから、予定では意外な人と結婚することになりますよ(笑)。江戸時代って、恋愛は庶民の特権でもあったんですよね。大店のお嬢さんや武家の娘さんに恋愛は許されなかった。だから、庶民の恋愛物語こそが、江戸小説の大きな柱だと思っています。

料理も楽しみの一つになりそうです。ふわっと香りが漂ってきそうで食欲が刺激されますし、丁寧な下ごしらえの描写では作ってみようかなと思ってしまいました。

柴田> 実はここが一番の悩みどころで、どんな料理にしようかと。おばんざいシリーズや高原カフェ日誌シリーズもそうですが、私、小説に登場する料理はすべて作ってみるんですね。だから今回も自分が作ったことのあるもの、作れるものにしようと。とはいえ、江戸時代と今ではずいぶん食べ物が違います。獲れる魚の種類も違うから、庶民はどんな魚を食べていたんだろうと資料などを参考にしていますけど、あまり囚われすぎなくてもいいのかなと。南蛮と呼ばれていたポルトガル料理を使ってみようかと研究も始めています。

柴田流の西洋料理江戸仕立て、楽しみです。

柴田> 読みながらお腹が空いてくれたら作者としても嬉しいです。

お話を伺っていると、初の時代小説を柴田さんご自身も楽しまれているように感じます。

柴田> 知らないことを知る、その楽しみを見つけています。でもね、断ったままのほうが良かったかなと思うときもあって(笑)。調べても調べてもわからないことがたくさんあるんですよ。残されている資料って、案外特別なことばかり。でもそうですよね。普通のこと、当たり前だと思っていることってわざわざ書き残しませんもんね。天ぷら一つ取ってもそう。揚げ油は火事を起こしやすいことから幕府は一般の家庭だけでなく、店でも天ぷらを揚げるのは禁止にしていました。でもある程度の規模の店ならいいよと。で、その”ある程度”がどの程度なのか、調べると色々疑問が出てきてしまったり。普通を書く、庶民の当たり前を書くということがこれほど難しいものなのかと痛感しています。

一読者として、柴田さんの新たな世界を楽しんでいます。冒頭から物語の世界に引き込まれました。

柴田> ページターナーを作品の一つの目標にしています。ページターナーって実はあまり良い意味ではなく、読み飛ばせるような、というニュアンスで使われることがあるんですが、リーダビリティ、読みやすさ、ページを捲るのが止まらない感じというのは、エンタテインメント小説では大事なことだと思っているので、常に意識しています。この作品も楽しみながら、おやすの成長を見守っていただけるようなシリーズにしていきたいと思っています。時代小説は好きだけど、柴田よしきという名前は知らないという人にも読んでもらえれば。そして、おやすを好きになり、応援してくださると嬉しいですね。

●新刊紹介

『お勝手のあん』
品川宿の老舗宿屋「紅屋」を営む吉次郎は、長旅で見知らぬ女童を連れ帰ってきた。類まれな嗅覚の才に気づき、お勝手女中見習いとして引き取ることにしたのだ。その女童・おやすは、紅屋の奉公人や、「百足屋」のお嬢さま・お小夜とともに過ごすうちに、人間として、女性として、料理人として成長していく。著者初の時代小説シリーズ!
本体680円+税
柴田よしき(しばた・よしき)
東京都生まれ。1995年に『RIKO−女神の永遠−』で横溝正史賞を受賞。著書に「炎都」「猫探偵正太郎」各シリーズなどがある。近著に『風味さんのカメラ日和』『ねこ町駅前商店街日々便り』など。ジャンルを超えて幅広く意欲作を発表し続けている。

小特集:『星空病院 キッチン花』発売記念

渡辺淳子特別エッセイ

最近、美味しくなったといえど、なかなか患者が食べたいものが食べられないのが、病院食。病気を治すためだとはいえ、外出もままならない患者からすれば、唯一の楽しみといえる食事は、元気になるための重要なファクター。看護師という経歴を持つ渡辺淳子さんが『星空病院キッチン花』を思いついた創作秘話です。


誰しも「あのとき、ああすればよかった」という、後悔のひとつやふたつがあるだろう。「やらない後悔より、やって後悔をする方がいい」とよく言われるが、長年看護師として働いてきた私には、とりわけ悔やんでいることがある。

社会に出て間もない、まだ二十代前半のころ。私は横浜の病院で、Aさんという三十代の女性患者を受け持った。Aさんの乳ガンは全身に転移しており、歩くこともままならなかった。だが胃腸には問題がなかったので、彼女は三度の食事を楽しみにしていた。

「コロッケが食べたーい。ソースのいっぱい浸みたヤツ」

いつもニコニコしていたAさんだったが、そのときは、ちょっと悲しげに言った。なぜならAさんには、差し入れをしてくれる家族や友人がいなかったからだ。

その月の病院食の献立表を見てみたが、当座のメニューにコロッケの文字はなかった。「来月はおかずにコロッケが出ますように」と、ふたりで願っているうちに、Aさんは意識をなくし、やがて天国へと召されてしまった。当時の私は、仕方なかったと肩をおとしただけだったが、年を追い、やがて後悔するようになった。

どうして私は、あのとき夜勤の前に惣菜屋に立ち寄り、コロッケを買って、こっそりAさんに持って行かなかったのか。真っ黒になるほど、ソースのかかったコロッケを、Aさんは食べたがっていたのに。揚げたてのコロッケを、箸で割ったときに上がる湯気に、そばかすのうかんだ頬を緩めただろうAさんを想像するたび、胸が痛んだ。

だが待てよ。揚げたては、ちょっと難しい。食堂まで出かけて、注文すれば別だけど。でも、あの病院の食堂のメニューには、コロッケなんかなかった。となると、リクエストしたものを作ってくれる、オーダーメイドの食堂じゃないと、ダメじゃないか。

そうした思いから生まれたのが、「星空病院キッチン花」である。

この食堂は院内の片隅、花咲く温室の隣で、こっそりと営まれている。客の好みで献立が決まるので、注文されてから、買い出しに走ることもしばしばだ。

シェフは自称、「手術と料理の腕前が取り柄」の名誉院長だ。少々頑固で、外科医としてのプライドも高いが、思うところあり、現在は一線から退き、料理にのみ心血を注いでいる。

手術を恐れる患者に振り回される、ダメな新人看護師。過去の浮気を認知症の妻に責められ、頭を抱える老夫。ガンで闘病中の父親と仲直りするため帰国した、国際駆け落ち婚をした女子。引きこもり中に、脳梗塞で半身マヒとなった中年男。

勝手回診中に客引きしたこれらの人々に、キッチン花で食事を取らせ、彼らの人生のつまずきを、シェフは快方に向かわせるのだ。

お代は、ひとり五百円以上なら、いくらでも結構。神出鬼没の陽気なおばちゃんに支えられ、気弱なアシスタントの助けを借りて作られる、ジャンルを問わない料理の数々。ひとりでも多くの人に堪能してもらえたら、Aさんの弔いになる気がしている。

●新刊紹介

『星空病院 キッチン花』
星空病院の新人看護師・高貝志穂は、患者にふりまわされる日々。今度こそ辞めよう、と落ち込んで寮に帰る途中、ふらりと病院の別館へと吸い込まれた。そこには、名誉院長が特別な患者や客をもてなす食堂・キッチン花があった……。病院の中の食堂を舞台に描く、心に沁みいる物語。
本体620円+税
渡辺淳子(わたなべ・じゅんこ)
滋賀県生まれ。看護師として病院等に勤務しながら「父と私と結婚と」で第3回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。著書に『東京近江寮食堂』『東京近江寮食堂宮崎編家族のレシピ』『結婚家族』などがある。
株式会社 角川春樹事務所
〒102-0074 東京都千代田区九段南2-1-30 イタリア文化会館ビル5階
TEL03-3263-7047|FAX03-3263-3177
お問い合わせ