魂の一行詩
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2006年4月号「月刊ランティエ。」掲載分  ※下に批評を掲載しています。
たちまちに独楽(こま)の衰ふ仏土かな 斎藤一骨
鳥籠の四温(しおん)の水のふくらみぬ 小島 健
寒月光(かんげつこう)集め砂城のでき上がる 北村峰子
鮫にしか聞こへぬ海の音がある 鎌田 俊
初夢に己れさがしてゐたりけり 小川江実
木の熟柿(じゅくし)もう落ちるかな落ちるかな 春川暖慕
逢ふまでのコート各駅停車かな 佐合尚子
こゑあまた吸ひたる蓮(はちす)より枯るる 滝口美智子
生きてゐるものみな美(は)しき初日かな 西川輝美
目を持たぬものが目覚めし鎌鼬(かまいたち) 神戸恵子
柚子の湯の乳房さみしく浮かびをり 砂原佳子
煤逃(すすにげ)の考えてゐる逃げどころ 川崎陽子
煤逃(すすにげ)て抗癌剤を打ってをり 上遠野藍
白鳥に貴賤(きせん)あり貴は人嫌ひ 田中一光
人日(じんじつ)の方程式を崩しけり 萩原美恵子
さみしさは奥歯のあたり冬銀河 若宮和代
赤い魚食べて真冬のバスにのる 倉林治子
雪女手の鳴るほうへ行ってはだめ 春木太郎
青年のしづかに立ちて弓始め 竹本 悠
たちまちに独楽(こま)の衰ふ仏土かな   斎藤一骨

同時作に、
埋火(うずみび)のぽつと誰かが来るやうな
日輪(にちりん)や熊鷹河を渡りきる

二句とも良い。「埋火」の句は、季語の本意本情を言い止めた、暖く柔らかくヒューマンな作品。「熊鷹」の句は、同じ作者と思えぬ実に見事な立句となっている。上五の「日輪や」が、中七・下五の光景を鮮やかに引き締めた壮大な一句。私の俳句三原則の「映像の復元力」が効いた作品。

『河』一月号で、一骨さんの次の一句を激賞した。

埋火(うずみび)のぽつと誰かが来るやうな

この手強(てごわ)い一句を、斎藤一骨さんの「遊び心」が生みだした「放下(ほうか)の一行詩」として結論づけた。

今回の「独楽(こま)」の一句は、前回に比べれば、誰にでも理解しやすい作品だが、この句も前回同様の「遊び」が生みだした一行詩である。今回の「遊び」は、現代の「風刺」である。「仏土」とは、仏の住む国土、或いは仏が教化する国土のことである。この句の場合は、日本国のことを指す

一骨さんの「独楽」の句について、節分の日に聞かれた『河』の運営委員会の席上で、各氏に問うた。すると、一骨さんのエネルギーが回転する独楽が止るように急速に衰え、仏の浄土に向かおうとしている、或る種の諦観ないし自嘲を、客観的に滑稽視した句と捉えた。一人はさすがに仏土を日本国と看破したが、それ以上には進めなかった。「独楽」が斎藤一骨さんの象徴であるとほぼ全員の意見であったが、それならば上五の「たちまちに」はどう説明するのか? 単に「急速に」と理解するとなると、八十を過ぎた作者の肉体と精神の衰えを自覚した諦観の句となってしまう。はたしてそうだろうか?

私は談林派俳諧から出発し、境涯句を志した芭蕉が、談林俳諧に存在した頭ずの高い「風刺」の精神をも否定してしまったことを残念に思う。芭蕉晩年に到達した「軽み」の思想は、後世誰もが疑うことなく芭蕉独自の世界と解釈しているが、芭蕉が提唱した「挨拶」と「滑稽」とは一体なんだったのであろう。西山宗因を中心とする談林派は、軽妙な口語使用と滑稽な着想によって流行した。芭蕉の軽みの代表句とされる次の一句、
むめがかにのつと日のでる山路かな
は、一体どうなるのだ。この句の本質は軽妙な口語を使用した滑稽句ではないのか?「軽み」とは、形を代えた談林派の思想ではないのか? 芭蕉学者は、私の素朴な疑問に真摯に答えていただきたい。

柄井(からい)川柳が選句した「川柳」は、多くの口語を用いて、人生の滑稽、機知、風刺に視点を当てたが、芭蕉が談林派から切り捨てた財産の一部を継承したのではないのか? さらに正岡子規は、芭蕉の発句(ほっく)の大事な「滑稽」さえも、「俳句革新」の名の下に切り捨ててしまったのではないのか?

私の提唱する「魂の一行詩」は、芭蕉や子規の切り捨てた詩の本質の一分野をも現代に復元させようとしている。例えば「恋」、例えば「風刺」。口語を使用しての前述について言えば、くだらぬ俳壇よりも時実新子さんの「川柳大学」の方が、「笑い」を含めて、すでに多くの秀句を発表している。私は十三年前から、句集『檻』『存在と時間』『いのちの緒』『海鼠の日』『JAPAN』の中で、「恋」も「笑い」も「風刺」も作品として実践してきたのだ。

罵詈雑言(ばりぞうごん)浴びたるあとの秋日濃し   『檻』
君はいま原宿あたりクリスマス   『檻』
鳴きたるはどの亀なりし一休寺   『檻』
戦争のあとかたもなき簾かな   『存在と時間』
母の恋いつか聞きたし落とし文   『存在と時間』
田螺和(たにしあえ)子規に遺(のこ)りし借用書   『存在と時間』

いくらでも句を上げることが出来るが、最後に次の一句をもって「風刺」の精神を読みとっていただきたい。

日本(にっぽん)に米軍がゐる暑さかな   『JAPAN』

最近の俳壇が私に遅れること十年、俳句は「笑い」が必要と言いだした。だいぶ本題とずれてしまったが、一骨作品の「独楽」の句を通して「魂の一行詩」の理解を深めてもらいたいがためである。前述のように「独楽」の句は、運営委員の各氏が述べた一骨さんの境涯句なのではない。あくまでも「風刺」の一行詩なのだ。時事川柳と「魂の一行詩」の違いは、風刺の度合いが川柳よりも遥かに文学性が高いということ。一骨さんの句は、「放下の一行詩」に遊んでいるということ。「遊び」の精神こそ、人生の深奥(しんおう)にあるということだ。

たちまちに独楽の衰ふ仏土かな
とは、IT企業の雄、ライブドアの堀江貴文氏の逮捕による日本国の現状を指しているのだ。「独楽」は堀江氏自身であり、IT業界なのである。勿論、「仏土」とは日本国のこと。この一行詩は、象徴詩なのだ。一骨さんの当月集の題は「独楽」。前回の「西鶴忌」同様、主宰である私に向けた一句。

「主宰、この句が読み解けますか?」

なんとも食えない老詩人だ。

ついでに今回の事件を娘Kei―Teeの雑誌インタビューにこたえて昨年の11月、私が予言した記事を参照していただきたい。

「インターネット証券って最近多いだろ。非常に危険なことになるんじゃないかと思うよ。あれは市場としても崩壊しかねない。いまは確かに株価が上がってきていて、実際に日本経済が力をつけてきた部分もあるけど、証券会社がアオってるね。バブル再来って言ってるけど、バブルって実体が離れるからバブルじゃないか。騙されて、カネ突っ込んで痛い目に遭うね。
政治は自民党が間違いなく低落する。小泉政権自体低落するけど、小泉が3期目をやんないって言ってるしね。自分が影響力持たせてると思っているけど、小泉自身の人気が暴落するだろう。」(『ブブカ』2月号)

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鳥籠の四温(しおん)の水のふくらみぬ   小島 健

深く繊細(せんさい)な抒情詩だ。『河』二月号では次の句を採り上げて激賞した。

枯蓮(かれはす)の中敗荷(やれはす)の匂ひけり

小島健の今回の句も、前回同様の視座で作られている。「枯蓮」の句は、枯色となった蓮の中に、まだ青を保っている破れた蓮が匂いを放っているという光景だが、今回は鳥籠の小鳥が啄(ついば)む小さな器の水も冬晴の暖い気象のせいで少しふくらんで見えるの意である。俳句という最短の詩型は、無限の虚空から微細(びさい)な宇宙までを詠むことが出来る文芸なのだ。否、文芸以上の秀れた器だと断言してもよい。私は、秀れた俳句は秀れた一行詩と常々説いてきた。その実例が、今回の小島健の一行詩と言ってさしつかえない。

繊細な、そして微小な事物への感覚は、そのまま巨大な世界と等価なのである。私の作品を実例として上げると、
空澄みて紙いちまいの重さあり   『いのちの緒』
白魚にかくも愛(かな)しき眼(まなこ)あり   『いのちの緒』

古典の名句をあげると、
海くれて鴨の声ほのかに白し   芭蕉
笹折りて白魚のたえだえ青し   才麿

芭蕉も才麿も、古典でありながらこの近代的な繊細さに一驚(いっきょう)するばかりである。

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寒月光(かんげつこう)集め砂城のでき上がる   北村峰子

同自作に、
たまねぎの薄皮ほどの初明り

「初明り」の句は、「たまねぎの薄皮ほど」という措辞(そじ)が実に良い。小島健の「四温の水」と同様の繊細な一句。しかし、「寒月光」の方は、文句なしの佳吟。「砂上の楼閣」を「砂城」と言い換えたのも面白い。冬月の光を集めて砂城となったと言っているだけだが、この幻想的な光景は当然崩壊することを前提として詠まれている。つまり、最近の峰子作品に現われる自分自身の肉体と精神の崩壊の危機意識である。幻想的で美しい一行詩でありながら、まさに鬼気迫る作品となっている。佳吟。

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鮫にしか聞こへぬ海の音がある   鎌田 俊

同自作に、
白鳥の塩気の翼洗ひをり
寒鴉(かんがらす)蒼き左手(ゆんで)が地をつかむ

銀座「しゃん句会」で、私が特選に採った作品。この時の兼題が「鮫」。俳句的俳句とは無縁の、硬質な抒情詩。まるで金属で作られたオブジェのような一行詩だが、「海の音がある」という句跨(またが)りの表現に、自然の温(ぬく)もりのある不思議な一句。

『河』の若手作家の中で、私は鎌田俊を寺山修司以来の才能と評している。さて、この句の「鮫」の象徴は何だろう? 私は、自分の身に即して、「漢(をとこ)」と考えている。「男」ではない。かつて私の第四句集『猿田彦』の解説を書いた文芸評論家の磯田光一は、

私はさきに『俳句』(一九八五年二月号)所載の「角川春樹の位置」という文章のなかで、春樹氏の作品の根底には男ならぬ漢のイメージがあることを指摘したが、その意味では、猿田彦も男ならぬ漢(をとこ)というべき存在であろう。しかも漢は、聖性につながりながら、この世では一種の暴力的な存在(略)。

と規定(きてい)し、漢とは、宇宙的な力として顕現する荒ぶる神と結論づけている。私の本質を漢であり、荒ぶる神として捉えた磯田説は、紛れもなく鋭い感性が導き出した驚くべき洞察である。

一九九一年七月十三日にスペインのバルセロナを出航した帆船「サンタマリア号」は、同年十二月二十三日にコロンビアのカルタヘナに入港した。その晩、ベッドを共にした女性は、私の身体に耳を当て、海の音が聴こえると言って、私を感動させた。その時の一句が、
冬の夜や漢(をとこ)のからだ海鳴りす
だった。鎌田俊の「鮫にしか聞こへぬ海の音」とは、私自身の経験に照らし合わせて、海の漢として推論したまでで、私の解釈が正しいとは言い切れない。勿論、生物としての鮫にしか聞こえない海の音と解するのが妥当であることは解っているが、それでは「魂の一行詩」とは言えず、単なる報告の「事説」になってしまうからである。詩の批評として、その詩が二通りの解釈が出来る場合、良い方をとるのが礼儀であり、あるべき批評だということを読者は認識して欲しい。

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初夢に己れさがしてゐたりけり   小川江実

同自作に、
初明りして松となる竹となる
身綺麗に生きたし老の初鏡

がある。特に「初明り」の句は素晴らしい。作品としては、「映像の復元力」の鮮やかな、そして「リズム」も「自己の投影」もしっかりしたこの句に惹かれる。元旦の闇から次第に輪郭があらわになり、それがまず太い松の形を示し、さらに時間をおいて細い竹の形が現われてくる。時間経過が一句の中にさりげなく投影された佳吟。しかし、同一作者の場合、一句だけを採り上げることになっている作品批評としては、「初夢」の名句が少ない中での、この句を採り上げないわけにはいかない。

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木の熟柿(じゅくし)もう落ちるかな落ちるかな   春川暖慕

同自作に、
モンローの歌が流れてゐる冬木
山枯れてだんだん眠くなりにけり

『河』会員の春木太郎と『河』同人の春川暖慕は、一行詩に「笑い」を結実させた『河』の双璧。『河』の代表作家である。「熟柿」の一句は、誰でも目を止め、感じていながら、しかし誰も表現しなかった句の一つ。それにしても、「もう落ちるかな落ちるかな」が上手い。この熟柿、熟れた女性を連想させ、落ちそうで落ちない。

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逢ふまでのコート各駅停車かな   佐合尚子

尚子作品は勿論「恋の句」。まさか両親などの肉親ではあるまい。恋の句では、『河』新人賞の先輩に当る西川輝美が秀句を残している。「逢ふまで」コートを羽は織おっているということは、当然逢えばコートを脱ぐ。その脱ぐまでの時間が、「各駅停車かな」なのである。各駅停車の焦(じ)れったさと、一駅ごとに恋人に近づいてゆく嬉しさとが同居して、「逢ふまでのコート」とが、実に良く照応していて見事。生涯不良の私としては、身に覚えがあり過ぎる作品。

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こゑあまた吸ひたる蓮(はちす)より枯るる   滝口美智子

勿論、この「こゑ」は雨の声、風の声、雪の声を指すのではなく、生き物、それも人間の声である。夏、大勢の蓮見客を迎えた蓮も、秋には破蓮(やれはす)となり、冬には枯蓮(かれはす)となる。早朝、見事な花を咲かせた蓮ほど、枯れるのも早いと言っているのだ。法華経(ほけきょう)とはサンスクリット語で白い蓮の花を指すが、日蓮宗に限らず、仏教の寓話にも、美術にも最も大切にされる花だ。したがって、仏教系の寺院に池には、必ずといっていいほど蓮が植えられている。だから、美智子の作品が仏教説話と関連させて、人生莫逆(ばくぎゃく)の思いと重ね合わせることも出来るが、それよりも大形な譬喩(ひゆ)ととった方が面白い。つまり、ユーモアのある一行詩ということ。

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生きてゐるものみな美(は)しき初日かな   西川輝美

同自作に、
風花(かざはな)や遺書なく死せる男たち
があるが、「風花」の句は私が製作した映画『男たちの大和』を観ての感慨であろう。「初日」の句は、新年最初の日を浴びて、人間も、動物も、植物もみな美しく感じるということ。輝美自身が素直に感じたままに表現した句だが、色紙などに書いてみると俄然(がぜん)良く見える一行詩。言葉もすっきりとしていて清々しい作品。

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目を持たぬものが目覚めし鎌鼬(かまいたち)   神戸恵子

鎌鼬とは、古くから日本各地に伝わる現象で、突然、刃物で切り裂かれたような傷口が出来ること。冬の季語である。

『河』一月号に次の句を採り上げている。
狐火や眼裏(まなうら)熱くして帰る

今回の句も、狐火と同様に民俗学を下敷きに作った作品だが、前回よりもさらに研とぎ澄まされた作品。「目を持たぬもの」が目覚めたことによって、こころの傷口が開いたと言っているのだ。それでは、「目を持たぬもの」とは何か。生き物か? 魔物か? そうではない。おのれの心の中に潜む修羅というより隠(おに)(鬼)だ。恨みなどの人間の負の情念だ。当月集作家の田井重子の場合、おのれのこころに修羅を飼っているが、神戸恵子の場合はおのれの隠(おに)を鎮(しず)めている。この句の場合、眠りについていた隠が、ある日ある時、不意に目覚め、作者のこころの傷口がぱっくり開いてしまったの意である。この句に感動したのは、この一行詩そのものが不気味である以上に、作者自身がその不気味さに気づいているという点にある。しかし、それ故に、「魂の一行詩」としての完成度は、抜群に高い。文字通り目の覚めるような一句。佳吟。

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柚子の湯の乳房さみしく浮かびをり   砂原佳子

同時作に、
殉教(じゅんきょう)のごと凍蝶(いてちょう)のありにけり
口紅を勝気に引いて四日かな

の二句があるが、圧倒的に「乳房」の句が良い。冬至に浸かったおのが乳房を淋しいと感じる詩性は、昨年の『河』新人賞を獲得しただけのことはある。私の未発表作品に次の句がある。

煮え切らぬ乳房がふたつ河豚汁(ふぐとじる)

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煤逃(すすにげ)の考えてゐる逃げどころ   川崎陽子

煤逃とは、新年を迎えるために、屋内の煤やほこりを払う十二月十三日の行事だが、煤払(すすはらい)を避けて外出することを煤逃と言った。俳人が好んで使用するユーモラスな季語。

私の一行詩集『角川家の戦後』に収録する未発表作品からは、
煤逃の老人がゐるプールかな

川崎陽子の「煤逃げ」も、例句同様のユーモラスな作品。煤払が始まって外出しようにも、さてどこへ行けばいいのか判断出来ず、家の中でうろうろしている光景である。いわば、この句は煤逃という季語の本意本情を捉えた作品。

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煤逃(すすにげ)て抗癌剤を打ってをり   上遠野藍

明を暗に逆転させた一句。上遠野藍の作品は、昨年の『河』九月号に採り上げている。

気がつけば乳房がひとつパリー祭

この句の批評は次のように書いた。

上遠野藍の作品は乳房がひとつだ。俳句が一人称だけの文芸とは考えない立場だが、勿論、原則的には「おのれ」を詠うことに変りはない。乳房がひとつということは、乳癌によって片方の乳房を喪失したと考えるのが自然だ。でなければ、季語のパリー祭が生きてこない。

『河』作品批評の掲載後、上遠野藍が乳癌によって乳房の片方を喪失したことを知った。だから今回の句が、虚ではなく事実だと知った上で鑑賞することになる。

煤逃というユーモラスな上五を、中七・下五の「抗癌剤を打ってをり」と逆転させた手腕はなかなかのもの。この句も「もどき」の句として成功した。しかし、この句の良さは作者が癌患者であろうが、他者であろうが評価には一切関係がない。作品は作品でしかないからだ。現実の上で、作者が煤逃の途中で病院に寄り、抗癌剤を打ったなどと到底考えられない。むしろ虚であるが故に魅力的なのだ。読者も、事実を詠むことより、虚を詠む大きさを考えなければ、この句の良さを理解出来ないと銘記すべきである。

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白鳥に貴賤(きせん)あり貴は人嫌ひ   田中一光

この句もユーモラスで面白い。白鳥にも貴賤があるという独断が面白く、さらに気品があり、かつ貴賓.を保つ白鳥こそ人間嫌いだという独断が面白い。この白鳥を美人と置き換えることが出来、そのような擬人(ぎじん)法を用いた句と解釈すべきだろう。すると、人嫌いは男嫌いとなり、さらに面白くなるからだ。美人にも貴賤があり、美貌の貴人は男嫌いという話。

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人日(じんじつ)の方程式を崩しけり   萩原美恵子

同時作の全てが良い。

渋滞のトンネルにゐてクリスマス
冬の鵙(もず)甘き言葉を欲しけり
身のどこか崩れるごとし冬薔薇(ふゆそうび)
マフラーを巻いてかすかな欠落感

人日とは、正月七日のこと。中国における人日の習俗は漢代からあり、元日より八日までをそれぞれ鶏、狗いぬ、猪、羊、牛、馬、穀にあてたことによる。それで、七日が人に当る。

例句として、
人日(じんじつ)のこころ放てば山ありぬ   長谷川双魚

今年、私が作った句は、
人の日の雨の障子を閉めにけり

「冬薔薇」の句が、「人日」の句の解釈となっている。「人日の方程式」とは、人の日に因ちなんで自分の生き方(方法論)のこと。それを崩されたのではなく、自ら崩したと言っているのだ。だから、「身のどこか崩れるごとし」が意味を成している。故に、冬薔薇の句が自句自解となっている。自分を今まで律して来た生き方を、人の日に自ら崩したと告白した一行詩。それにしても、この句は何とも言えぬ魅力的な作品。

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さみしさは奥歯のあたり冬銀河   若宮和代

『河』二月号(『ランティエ。三月号』)では次の句を採り上げた。
冬がくる改札口を抜けにけり

過日、若宮和代から次のような葉書が届いた。

本日、二十四日を待ち切れない思いでおりました。急ぎ『月刊ランティエ。』を買ってまいりました。はじめて主宰の選評に取り上げて頂き、震える手でページをめくりました。不安と迷いばかりでの毎日の私に、何というあたたかい言葉を頂き、涙をこらえることが出来ませんでした。これよりは、今一層の勇気をもって、自分自身をしっかりと見つめ、詩の真実へ近づく努力をしなければならないのだと深く思いました。悩みはより大きくなることと思いますが、やっぱりどうでも私はこの道が好きです。そして遠いからこそ、がんばらなくてはと思います。これからも御指導よろしくお願い致します。寒い日々をどうぞ御自愛してお過ごし下さい。
そこにある「真実」とほし冬木の芽   和代
春樹主宰

『月刊ランティエ。』といえば、当月集作家の市橋千翔さんからも次の葉書を受け取った。

もう直ぐの春ながらまだ寒中、お見舞い申し上げます。喪中のため年賀のご挨拶を失礼いたしましたが、暮の二十九日に家族全員と、申しましても娘と孫娘の三名ですが『男たちの大和』を鑑賞させていただき、一年分の涙を流し、胸いっぱいの感動をひっさげて年を越しました。いまや孫娘、映里果もそのフィアンセもそして私も『月刊ランティエ。』の愛読者です。ご自愛下さいませ。
かしこ

本題の句に話を戻すと、「冬銀河」は『河』中央支部の投句である。私はこの句を特選には採らなかった。理由は、上五・中七の「さみしさは奥歯のあたり」にある。奥歯に淋しさの句は、他の俳人にもあった記憶が確かにあるからだ。しかし季語が違う。季語が一句の「いのち」であるならば、先人の句がありながら季語だけが違った名句の数々がある。歳月の中で、残ったのは先人の句ではなく、季語の違った句の方だ。例をあげよう。
降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男
骰子(さいころ)の一の目赤し春の山   波多野爽波

「明治は遠くなりにけり」も「骰子の一の目赤し」も草田男や爽波の作品より前に同じフレーズの、それもそれなりに知られた句があったが、残ったのは「降る雪」であり、「春の山」の方だった。若宮和代自身、先人の句を知らないし、私自身も忘れてしまった。とすれば、「魂の一行詩」として、季語が「いのち」であるという見解に立てば、奥歯のあたりに淋しさがあるという発見は、充分に佳吟として記録されるべきだと私は考える。よってこの句を採り上げた。

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赤い魚食べて真冬のバスにのる   倉林治子

同時作の、
コンビニの灯を浴びてゐる去年今年(こぞことし)
も現代の抒情詩として成功しているが、「赤い魚」の句の方は、今年一月八日の私の誕生句会で佐川広治と共に特選に選んだ作品。今月の『河』作品の中で最も感銘を受けた。

赤い魚が何であるか特に指定していないことがこの句の第一の手柄。真冬のバスが白色を連想させつつも隠しているのが第二の手柄。そして、何よりも日常の中に詩を発見したことがこの句の最大の手柄なのだ。倉林治子はこの句によって『河』衆に記憶されるだろう。私がかつて俳句の三原則と定義した「映像の復元力」「リズム」「自己の投影」は、「魂の一行詩」にも通底している。なぜなら、これも常に説いてきたことだが、秀れた俳句は秀れた一行詩であるからだ。倉林治子作品に続いて関連する菅城昌三の次の句に触れる。

降る雪や今年最後のバスが出る   菅城昌三

この句も目の覚めるような作品だ。治子の「真冬のバス」同様、凛とした気品を放っている。しかし、作品としては治子の一行詩のように、一句全体が視野に飛び込んでくるところがない。「赤い魚」は、すっきりした立ち姿であることを読者はよく眺めてもらいたい。一行詩も俳句同様に読むものではなく、一句全体を眺めるのが、正しい鑑賞のあり方である。

私自身の句を一句あげる。すでに韻文ですらない一行詩だ。この句の立ち姿を眺めながら、鑑賞して欲しい。

ゆく年のバスはもう行ってしまった   『角川家の戦後』

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雪女手の鳴るほうへ行ってはだめ   春木太郎

この句も、私の一行詩と同じように韻文ではなく、散文である。しかし、「雪女」の立ち姿をまず読者は眺めて欲しい。そしてこの句の暖いユーモアを味わって欲しい。ほのぼのとした温もりが伝わってくるはずだ。一行詩が散文であることを要求しているのではない。「魂の一行詩」の原則は、あくまでも有季定形の美しさにある。しかし、季語に甘えた俳句は詩ではない。一行詩は作者の魂と読者の魂が共振れすることが最も重要なのだ。今月の作品批評は、一行詩としての立ち姿を、そして一句を読むのではなく、眺め味わうことが大事であることを伝えておきたい。

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青年のしづかに立ちて弓始め   竹本 悠

中央支部の句会で私が特選に採った作品を、最後にあげておきたい。この句の良さも前述の鑑賞の態度をもって味わって欲しい。ゆっくりと、しずかに、弓始めの青年が立ちあがる。そのきりっとした姿の美しさを眺めていただきたい。詩は理屈ではない

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