「俗語とは現代性」
ブルースやロックンロールや草萌ゆる 石橋 翠
俳句と一行詩の違いをひと言で言えば、俗語を取り入れ、詩語に昇華させることだ。「そもそも元来、俳諧と連歌に本質的な差別はない。優美な言葉だけで読むのが連歌、俗語でも何でも取り込むのが俳諧とされるだけのことである」(小西甚一『俳句の世界』)。 子規の俳句から百年、まさに俳句は優美を求め、俗語を否定してきた。そのことによって、俳句は活力を失ってしまったのだ。俗語とは現代性である。現代を詠わない詩など、骨董品に過ぎない。
同時作に、
雲に雲ひとつとなりし立夏かな 藤房のゆらがぬ影のなかりけり 夏蝶の空の青さとなりにけり 薔薇園の薔薇みるための白き椅子
がある。「雲に雲」の立夏の句と「花嫁」の立夏の句は同レヴェル。下五の「立夏かな」に対して、上五中七の「花嫁を抱きかかへたる」の措辞が良い。花嫁の眩いばかりの笑顔が「立夏」の季語に適確に響き合っている。
戦争に吊るされてゐる聖五月
があり、句としては「聖五月」のほうが良い。しかし、俗語とは現代性という今月のアドバイスを生かした「青時雨」を鑑賞することにする。上五中七の「ロックンロール流るる葬の」は、五月二日に亡くなった忌野清志郎のこと。五月九日の葬儀には、四万三〇〇〇人のファンが集った。上五中七の「暗」に対して、下五の「青時雨」は「明」である。「暗」を「明」に転換させた現代の一行詩。
サーファーの心を波に描きをり まほろばの天に傷なし桐の花 羅のひとが羽化するしぐれ
があるが、「桐の花」の一句が良い。しかし、「菜の花」の句が断然に良い。中七下五の「沖へ鯨は去りにけり」の措辞が抜群に面白い。勿論、「実」ではなく「虚」。詩的イメージの鮮やかな作品。
春月や猫科の少女発情す
があり、この句も面白い。一方、「海鳴り」の句は、中七下五の「朱夏のノイズとなりにけり」の措辞が良い。勿論、海鳴りは冬でも、春でもあるが、何といっても夏だ。しかも、中七の「朱夏のノイズ」は言い得て妙。
「半夏生草」は、半夏生のころ、白色の小花を多数つける。また「半夏生」は七月二日ごろで、半夏という毒草が生ずるところからこの名があるといわれ、この日はさまざまな禁忌があり、物忌みの風習があった。上五中七の「蒼褪メタ骨ニ似タ花」の措辞は、下五の「半夏生」に対して、季語の本意本情を言い止めたインパクトのある秀吟。
花時雨この世に生きて影を置く 千年の春千年の風の中
があるが、平凡な「いのち」を詠った「それぞれの春」の一句が良い。ひとりひとりに春はやって来るが、そのひとりひとりに一つずつの修羅が宿っている。中七下五の「それぞれの修羅を抱き」の措辞が適確である。
脱皮するごとくにサーファースーツ脱ぐ
がある。「薔薇」の一句は、人間の象徴である。美しいものには棘があるとは、昔からの格言。人間の棘に惹かれた作者は、自分自身を含めて人間を見失うという句意。象徴詩の作品。
句意は文字通りで、盲目となっても花守の眼には満開の桜が見える、ということ。下五の「花の海」の措辞が新鮮。
「囀る」は鳥が囀るという春の季語。しかし、この句は鳥ではなく上五中七の「言霊が囀っている」と意表をつく表現の上に、下五の「来来軒」というどこの町でもある中華店を持ってきて更に面白くなった。ある種の機知俳句であり、ユーモア句として成功した。